最後まで成し遂げることと最後まで終わらせることは違う
2020.09.18
クレド9.最後まで成し遂げる
中途半端な仕事を拒み、期待以上の成果を上げ、信頼を積み重ねます。自己流に固執せず、業務プロセス、報連相、守破離を積極的に取り入れ、堅実・大胆にプロジェクトを成し遂げます。
大切なのは質
何かを最後まで成し遂げることは容易なことではありません。しかし、何かをとりあえず最後まで終わらせることはそれほど難しくはないでしょう。
例えば、痩せるために毎日一定の距離を走り切ると決めたとしましょう。自らが設定した時間でその距離を走り切ることを毎日続けるというのは容易ではありませんが、途中でダラダラ歩いたり、ベンチや店で休憩をとったりしながらとりあえずその距離を自分の足で“移動する”ことは、健康でかつ時間さえあれば誰にでもできることでしょう。結局、痩せるという目的を見失い、最終的な目的となってしまった“移動する”ことの達成に満足してしまうかもしれません。「もうウォーキングでいいや」なんて思いさえするかもしれません。
つまり、最後まで成し遂げるということは最後まで終わらせるだけでなく、その過程に質を伴わせるということなのです。何かを成し遂げようと思うなら、質を意識しなければいけません。
特に、予め時間が決められているミッションについては、とりあえず最後まで終わらせたことを成し遂げたことだと間違って捉えてしまう場合があります。
例えば受験勉強。自分で予定した全ての受験が終了すれば、それまでの過程がどうあれ、とりあえずは最後まで終わったことになります。最後の試験が終わり「受験が終わった!ここまで勉強を成し遂げた!」と思ったとしても、時間による終了が自分の努力によるものではない以上、その過程の質は保証されないのです。
タイマーが鳴ったからといってタイマー作動中の自分の行いの質が良かったと安直に考えてはいけません。過程を振り返る際には結果やデータ、実際に自分が行ったことを基に判断するべきでしょう。
私は中学時代、野球部に所属していましたが、正直この活動を成し遂げたとは全く思えません。何か明確な目標を持って本気で取り組んだわけではなく、最終的に「タイマーが鳴って」引退に至ったからです。今振り返れば、野球に全力で取り組んでいたらもっと中学時代は充実し、人間的に成長できただろうなと思います。
一方で自信をもって成し遂げたと言えることもあります。私は過去の自己紹介記事において中途半端な自分から克服するという趣旨で浪人時代の受験勉強の経験を挙げました。私はこの受験勉強を「成し遂げた」、つまり質を伴っていたと捉えています。それは単に大学に合格できたからだけではなく、月ごと、週ごと、日ごとに勉強計画を立てて実行し、模試でも良い成績を残すことができたからです。
この努力のおかげで将来が見えない不安と戦う忍耐力がついたと思います。
参考:もう中途半端は、やめにしよう(私の自己紹介記事です)
何かを成し遂げようと思うなら、質にこだわって中途半端を徹底して拒むべきだと思います。そして振り返る際には自分に厳しく、その反省を次の「完遂」へ向けて活かすべきでしょう。
成し遂げるために
すべきこと、しなければならないことが多いとき、そのそれぞれが中途半端で、結局とりあえず最後まで終わったという結果に至ることは少なくないのではないでしょうか。
しかし私の友人にはそれでもその全てをほとんど完璧に達成する人がいます。掛け持ちする2つのサークルの練習を毎日自主的に行い(彼はセパタクローのU-23強化指定選手です)、アルバイトもこなし、試験では好成績、自炊も怠らない。「今回の試験、何点くらい狙ってる?」と聞くと「そら満点やろ」と返す彼は中途半端が嫌いなのでしょう。
全てにおいて完璧に成し遂げることは易しくありませんが、「中途半端を嫌う」というシンプルな考えを持つだけでも、行動の質が変わってくるのではないでしょうか。